ヒマワリの語源を植物学的に解説するとどうなるか
太陽を追いかけて成長すると言われるヒマワリの語源は、「日廻り」というところから来ています。実際に、太陽を追いかけて回っているように見える理由は、ヒマワリの光の当たらない部分が速く成長するからです。
つまり、ヒマワリの後ろの方が早く成長するため、若い茎や咲き始めたばかりの花が太陽の方を追いかけているように見えるのです。成長中の茎は光の向きに合わせて曲がると考えられています。そして、完全に開いたヒマワリの多くは東に向いています。この理由はヒマワリの成長ホルモンにあるといえます。
なお、種子が実ったヒマワリはその重さもあって、花が頭を垂れたような形になっています。しかし、これは重さの理由だけではなく、太陽光を当て過ぎないためではないかという説もあります。
スペインのヒマワリはなぜ有名なのか
ヒマワリが咲いていたのはアメリカ大陸だといわれています。ちなみに、コロンブスが見つけたとされるヒマワリには様々な説があるのを知っていますか?
例えば1564年頃に、スペイン人のニコラス・モナルテスが、スペイン王立植物園にヒマワリを運んだという記録があります。また、それより50年ほど前の1510年頃、一般のスペイン人がたまたま発見して持ち帰ったという説もあります。
こういった歴史があり、アンダルシアのヒマワリが観光名所となりました。つまりヨーロッパでは、スペインがはじめにヒマワリを育てた国と考えられています。
その後、なかなかスペイン国外にヒマワリは普及しませんでした。17世紀になって、ヒマワリがフランスやロシアに伝わり、そのあと中国を経由して日本にも伝わったとされています。なお、「向日葵」という漢字も中国から伝わったものと考えられています。
アメリカのヒマワリ事情
ヒマワリの原産地である北アメリカでは、紀元前ごろからインディアンがヒマワリを普段から食べていました。非常に貴重な食べ物として扱われていたようです。ヒマワリは主に、テキサスやカリフォルニアなど、アメリカ西部に咲いていたと考えられています。
ヒマワリとインディアンの歴史は深く、紀元前3000年頃には既にヒマワリを栽培していました。例えば、種を粉末状に加工し、お菓子やおかゆ、パンにして食べたという記録があります。また、他の野菜と混ぜて食べられていたという話もあるそうです。
また、茎の部分を乾燥させて、家を建てる材料にしていたという記録もあります。他にも、ヒマワリを塗り薬としたり、種の油を利用して肌や髪に使ったりしたと言う記録も残っています。つまり、インディアンの生活にとって、ヒマワリは欠かせない資源だったといえます。
ゴッホのヒマワリについて
画家のゴッホは、花瓶にさした7本のヒマワリの絵を描きました。彼にとってのヒマワリは、南フランスの太陽や理想郷(りそうきょう)を表していたと考えられています。まだ、ゴッホの精神が正常だった時代に描かれたことからも、ヒマワリが健全であるものの象徴として捉えていたと分かります。
ヒマワリの絵が7点があると言いましたが、そのうちの1点については火事でなくなったという記録があります。1945年8月6日の芦屋空襲の際、オーナーの山本顧弥太(やまもとこやた)の自宅が被害にあい、ゴッホのヒマワリが焼失してしまったといわれています。
なお、この当時の値段で2万円でした。7万フランという大金で購入したようです。現在の価格に直すと、5億円から8億円とも言われています。ゴッホのヒマワリの絵は、ものすごい価値がある作品といえます。
3268zauber, H. Zell, Bruce Fritz